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ヒバクシャ:「ぼくは原ばくがだいきらいです」 父の苦しみ作文に その子は今
懐かしい教え子との40年ぶりの対面に自然と顔がほころんだ。長崎市の被爆者、山川剛(たけし)さん(87)は6月、同市の原爆資料館で小峰英裕(ひでひろ)さん(50)と再会した。1984年、山川さんが市立西町小で4年生の担任教諭を務めた時の児童の一人。山川さんは、こんな書き出しで小峰さんが当時つづった作文を大切に保管してきた。「ぼくのお父さんは西町で原ばくにあいました」――。【撮影・平川義之、尾形有菜】2024年7月9日公開
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ヒバクシャ:「今でも恨んでいますか?」 79年前、母を殺された私への問い
79年前、故郷を破壊され、母親を殺された。「今でも恨んでいますか」。そう問うてきたのは、イスラエルとパレスチナの若者だった。森下弘(ひろむ)さん(93)=広島市佐伯区=は中学3年だった1945年8月6日、爆心地から南東約1.5キロの鶴見橋西詰め(現広島市中区)で被爆した。顔や首に大やけどを負い、自宅にいた母は亡くなった。【撮影・加古信志】2024年7月8日公開
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ヒバクシャ:世界を巡る船の中で、92歳の男性が伝えたかったことと心残り
日本から世界を巡る船旅に出ませんか。90歳を過ぎた身に舞い込んだオファーを快諾した。船内で、特に若い人たちにどうしても伝えたいことがあったからだ。長崎市で被爆し、今は埼玉県新座市で暮らす田中熙巳(てるみ)さん(92)が乗る船は4月13日、横浜港を出港した。約3カ月かけて世界一周する「ピースボート」の船で、田中さんはこのうち南アフリカのケープタウンまで約1カ月間の船旅をする。【撮影・安藤いく子】2024年7月7日公開
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ヒバクシャ 月1回、30分「それが何に?」 84歳が座り込み続ける理由
5月9日の昼過ぎ、長崎市の平和祈念像前に被爆者の川野浩一さん(84)=長崎県長与町=ら約100人が「武力で平和はつくれない」などと書かれた横断幕を広げ、座り込んだ。外国人観光客らが物珍しそうに目を向ける。長崎原爆の日(8月9日)にちなみ、毎月9日に県平和運動センターなどが呼び掛ける「反核9の日座り込み」。6月9日で500回を迎える。【撮影・吉田航太、尾形有菜】2024年5月20日公開
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ヒバクシャ 目の前で消えた命 「記憶ある限り語り継ぎたい」
家の中では壁や手すり伝いに歩き、外出時は右手に握ったつえを手放せない。直近の出来事を思い出せないことも増えてきたが、79年前の記憶は鮮明だ。目の前で失われていった命を語り継ぐため、気力を振り絞る。在日韓国人2世の被爆者、朴南珠(パクナムジュ)さん(91)=広島市西区=は約20年にわたり、主に原爆資料館(広島市)の依頼に応じて子どもたちへの証言活動を続けてきた。【撮影・根本佳奈】2024年5月19日
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ヒバクシャ なぜ生き残ったのか 負い目感じながら見つけた「使命」
あの日、13歳だった。同級生192人が亡くなる大惨事を生き延びたが、ずっと負い目を感じながら過ごしてきた。92歳の今、「当時の記憶を伝えたい」との思いで、絵を描き続けている。【撮影・井村陸】2024年5月18日公開
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論点:「黒い雨」訴訟、首相に望む 原告・高東征二さん
被爆者救済や核廃絶を巡り、重大な局面を迎える時期に被爆地・広島選出の自民党・岸田文雄氏が首相に選出された。菅義偉前首相が打ち出した「黒い雨」を巡る被爆者救済の拡大方針を具体化することは喫緊の課題だ。来年には核拡散防止条約(NPT)や核兵器禁止条約の重要会議が相次ぐ。新首相に期待することは何か。【撮影・山田尚弘、小山美砂、代表撮影、一部写真は高東征二さん提供】2021年10月21日公開
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2020ヒバクシャ・川野浩一さん 「長崎を最後の被爆地に」被爆者運動のリーダーの思い
核兵器の保有や使用を禁止する核兵器禁止条約の批准国・地域が50に達した10月24日、その輪の中に日本はいなかった。記録報道「2020ヒバクシャ」の9回目は「長崎を最後の被爆地に」と願えばこそ、政府にも厳しい言葉を投げかける被爆者運動のリーダーに焦点を当てる。【撮影・今野悠貴、徳野仁子】2020年11月15日公開
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2020ヒバクシャ 近藤紘子さん 父「タニモト牧師」の背中追い 核なき世界への希望、若者に託す
核兵器廃絶への合言葉「ノーモア・ヒロシマ」は「広島の悲劇を世界のどの国にも再現させたくない」という日本人牧師の言葉から生まれ、世界に広まったと言われる。記録報道「2020ヒバクシャ」の8回目は、被爆者救済と平和運動に半生をささげたこの牧師を父に持ち、葛藤を乗り越えて国内外で核廃絶を訴え続ける娘の歩みをたどる。【撮影・山田尚弘】2020年10月17日公開
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2020ヒバクシャ 山川剛さん講話 コロナで消えた 被爆教師 初志貫く50年
広島、長崎に米軍が原爆を投下して今年で75年。新型コロナウイルスの感染拡大は、若い世代へあの日を語り継ぐ活動に影を落としている。節目の夏を前に被爆者は今、何を思うのか。記録報道「2020ヒバクシャ」の4回目は、長崎で平和教育をけん引してきた被爆教師の物語を伝える。【撮影・松村真友、津村豊和】2020年5月30日公開
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2020ヒバクシャ 高東征二さん 執念の「黒い雨」降雨図 遺志継ぐ
1945年8月6日に米軍が広島に原爆を投下してから75年。あの日、放射性物質を含む「黒い雨」に遭ったものの、今も国の援護を受けられない人がいる。記録報道「2020ヒバクシャ」の3回目は、病に侵されながら、国に被爆者と認めさせるため闘い続ける元高校教諭の姿を通して、黒い雨を巡る運動の歴史をたどりたい。【撮影・山田尚弘】2020年5月2日公開
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2020ヒバクシャ 朝長万左男さん 親子で白血病究明 「なぜ戦争」問い続ける被爆医師
「被爆したのはどこやったかな」。3月上旬、長崎市三ツ山町の特別養護老人ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」の診療室で、医師の朝長万左男さん(76)が、入居者の女性(91)に話しかけた。原爆が投下されたあの日、女性は16歳だった。市中心部にあった公設市場の2階にいた時のすさまじい光景を、静かに、そして事細かに語り出した。【撮影・徳野仁子、浅野翔太郎】2020年3月22日公開
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