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動画を再生 次代への遺言~私が見た戦争 長岡空襲を生き延びた白石美千雄さん(86) 今も癒えぬ傷
次代への遺言~私が見た戦争 長岡空襲を生き延びた白石美千雄さん(86) 今も癒えぬ傷
「この傷は消えることは無いと思います」。1945年8月1日夜~2日未明にかけて、米軍は交通の要衝だった新潟県長岡市を焼夷(しょうい)弾を使い爆撃した。1488人の命が奪われた夜のことを、国民学校3年生だった白石美千雄さん(86)は、今でも鮮明に覚えているという。【撮影・渡部直樹】2023年2月22日公開
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動画を再生 「寝ていた布団が燃えだした」 86歳が語り続ける八王子空襲
「寝ていた布団が燃えだした」 86歳が語り続ける八王子空襲
「寝ていた布団が、ぶすぶすと焦げるように燃えだした」。東京都八王子市に住む串田玲子さん(86)の脳裏には、77年たった今も戦争の記憶が生々しく残っている。1945年8月2日未明、米軍が焼夷弾約67万個を投下した「八王子空襲」。その直下に串田さんはいた。【撮影・渡部直樹】2022年8月27日公開
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動画を再生 次代への遺言:ウクライナ抑留者の近田明良さん(96) ロシアの侵攻に心痛める
次代への遺言:ウクライナ抑留者の近田明良さん(96) ロシアの侵攻に心痛める
「昔と同じだと思いますよ、今の状況は」。太平洋戦争直後、旧ソ連にだまされてウクライナやシベリアに抑留された経験を持つ東京都福生市の近田明良さん(96)は、ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースを見る度、かつて自分が置かれた状況を重ねて、心を痛めている。【撮影・渡部直樹】2022年5月14日公開
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動画を再生 次代への遺言~私の見た戦争 堀見智子さん(88) 原爆で負ったやけどの看護で感じた思い
次代への遺言~私の見た戦争 堀見智子さん(88) 原爆で負ったやけどの看護で感じた思い
「背中じゅうに赤いやけど。小さな糸のようなウジ虫が(背中に)湧いているんです。お薬を塗ってあげるのかなと思ったんですが、箸みたいな棒を持たすんです。それが治療なんです」。11月7日、神奈川県大和市などが主催し、市内の学習施設で開いた「戦争体験を聞く会」。相模原市の元小学校教員、堀見智子さん(88)は約70人の聴衆を前に、ウジ虫を払い落とす動作を繰り返してみせた。【撮影・渡部直樹】2021年12月9日公開
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動画を再生 次代への遺言~私が見た戦争 関田寛雄さん(92)「少数者生かす社会の実現を」
次代への遺言~私が見た戦争 関田寛雄さん(92)「少数者生かす社会の実現を」
「いつ、キリスト教徒であることがバレるか。それを恐れ、典型的な日本人になろうとした。差別される少数者はそういうふうに、多数者の側に寄り添っていく」 牧師の関田寛雄さん(92)は太平洋戦争中の自身をそう振り返った。北九州市で生まれ、幼少期に大阪府吹田市に転居。父親も牧師だった。小学校時代、同級生から「アメリカのスパイ」「キリスト教やめろ」と暴行を受けた。「キリスト教徒であることはやばいこと」。差別を免れるため、模範的な「軍国少年」になろうと努めた。【撮影・後藤由耶】2020年12月10日
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動画を再生 次代への遺言~私が見た戦争 小谷孝子さん(81)「無傷」が罪悪感に 「あっちゃん」と伝え続ける被爆体験
次代への遺言~私が見た戦争 小谷孝子さん(81)「無傷」が罪悪感に 「あっちゃん」と伝え続ける被爆体験
「ぞろぞろ、隙間のないくらい逃げてきた。男の人か女の人かも分からない。着ているものも皮膚も垂れ下がり。ぞろぞろぞろぞろ。本当に幽霊の行列みたいだった」。75年前の8月6日。6歳だった小谷孝子さん(81=千葉県八千代市)は広島市内の自宅前で見た光景を今もはっきりと覚えている。【撮影・後藤由耶】2020年11月25日公開
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動画を再生 2020ヒバクシャ・川野浩一さん 「長崎を最後の被爆地に」被爆者運動のリーダーの思い
2020ヒバクシャ・川野浩一さん 「長崎を最後の被爆地に」被爆者運動のリーダーの思い
核兵器の保有や使用を禁止する核兵器禁止条約の批准国・地域が50に達した10月24日、その輪の中に日本はいなかった。記録報道「2020ヒバクシャ」の9回目は「長崎を最後の被爆地に」と願えばこそ、政府にも厳しい言葉を投げかける被爆者運動のリーダーに焦点を当てる。【撮影・今野悠貴、徳野仁子】2020年11月15日公開
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動画を再生 次代への遺言~私が見た戦争 大島満吉さん(84) 母は妹を殺めた 「悲劇の歴史、風化させない」
次代への遺言~私が見た戦争 大島満吉さん(84) 母は妹を殺めた 「悲劇の歴史、風化させない」
太平洋戦争の終戦直前、旧満州(中国東北部)に侵攻したソ連軍の戦車部隊の攻撃や自決で1000人以上の日本人が犠牲になった葛根廟(かっこんびょう)事件。東京都練馬区の大島満吉さん(84)はわずか百数十人の生存者のひとりだ。【撮影・後藤由耶】2020年10月23日公開
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動画を再生 2020ヒバクシャ 近藤紘子さん 父「タニモト牧師」の背中追い 核なき世界への希望、若者に託す
2020ヒバクシャ 近藤紘子さん 父「タニモト牧師」の背中追い 核なき世界への希望、若者に託す
核兵器廃絶への合言葉「ノーモア・ヒロシマ」は「広島の悲劇を世界のどの国にも再現させたくない」という日本人牧師の言葉から生まれ、世界に広まったと言われる。記録報道「2020ヒバクシャ」の8回目は、被爆者救済と平和運動に半生をささげたこの牧師を父に持ち、葛藤を乗り越えて国内外で核廃絶を訴え続ける娘の歩みをたどる。【撮影・山田尚弘】2020年10月17日公開
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動画を再生 次代への遺言~私が見た戦争 森田富美子さん(91)原爆で失った家族「体に残そう」と血を手に…
次代への遺言~私が見た戦争 森田富美子さん(91)原爆で失った家族「体に残そう」と血を手に…
「その時、この手は洗えないと思いました。自分の体にしっかりと残そうと思って、すり込みました」。東京都内に住む森田富美子さん(91)はそう話し、左右の手のひらをすり合わせた。75年前、長崎で被爆。父と母、弟2人の遺体を大きなトタン板に並べて火葬した。手には黒いすすと一緒に、両親と弟たちの血のりがべったりとついた。【撮影・後藤由耶】2020年9月25日公開
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動画を再生 まぶたの惨状訴える被爆者 長崎 75回目の原爆の日
まぶたの惨状訴える被爆者 長崎 75回目の原爆の日
原爆投下から75年の9日、長崎市は祈りの朝を迎えた。平和公園には原爆による犠牲者の遺族や友人が早朝から次々に訪れ、平和祈念像の前で手を合わせた。長崎県大村市の高嶌ミヤ子さん(92)は「長崎青年師範学校2年生の時、爆心地から1・8キロの東北郷(現住吉町付近)の寮で被爆し、2歳下の弟と母を1年後に相次いで亡くした。黒焦げになった同級生の姿は今も忘れない。犠牲者だけでなく、生き残った人も苦しみ続けている」と話した。【撮影・飯田憲】2020年8月9日公開
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動画を再生 eye:被爆者の75年
eye:被爆者の75年
1945年8月6日午前8時15分、米軍が広島に投下した原子爆弾は市街地の上空約600㍍で爆発し、多くの市民の命を奪った。広島市によると、これまでの原爆の関連死者数は約32万人にのぼるという。あの日からまもなく75年。戦後を生き抜いてきた被爆者は節目の年に何を思うのか。それぞれの半生と当時の記憶を紹介する。【撮影・山田尚弘】2020年7月25日公開
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